皆さんお元気ですか。私はキルギスでの滞在も4週間目を迎え、タジキスタンに行く前にインターネット環境が良いビシュケクでブログの更新を頑張っています。数日前まで2週間ほど山登りや湖を周るため地方に滞在していました。アラコル湖という3800メートルのところにある秘境の湖にも登ってきました。3日で40キロも歩いたんです。山の40キロは結構きつかったし、テント泊で暴風に襲われてテントが潰されたり、雪や雹が降るなか標高の高いところを登ったりして本当に大変だったんですが、この山で素晴らしい人たちとの出会いがありました。その話は後ほどするとして、今日はトルコ旅の続きです。
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キャンプサイトで2泊した後、心優しいオーナーのジャンと再会を約束しアンタルヤへ向けて出発した。当初はヒッチハイクを試みたものの、場所が悪かったらしく誰にも拾ってもらえなかったので諦めてバスに乗った。カシュからアンタルヤまでの道はくねくねとした海岸線を行くものだったので、4時間もかかってしまった。アンタルヤのバス停に着いてまず先にしたことは今夜発のメルスィン行きの夜行バスのチケットを買うことだった。かなり忙しいスケジュールになってしまったのは何故かと言うとアンタルヤの宿の値段がとても高く、この町に泊まれないからだった。トルコの友達からはアンタルヤは大したことないから行き先から外した方がいいよと言われたものの、主要観光都市で気になるので夜行バスを待つ間の6時間で旧市街観光に出掛けた。
行ってみた感想としてはやはり、あまり見所がないということだった。噂に聞いていた通り、街を歩いているのはドイツ人とロシア人観光客ばかりだった。観光地なのでレストランの客引きがとてもしつこくて嫌な思いをした。あるレストランでは客引きの男が出てきて、路地を歩く猫を指差して「これ何だ」と聞くので私は「猫」と答えた。すると今度はチキンの丸焼きを指差して「これ何だ」と聞いてきたので「鶏」と答えた。男は含み笑いを浮かべて「そう、その通り。うちのレストランでは鶏肉を出してるんだ。お宅の国みたいに猫は出していないよ」とドヤ顔で言ってきた。
私はこの小芝居に本当に頭がきた。こんな頭の悪い方法で中国人やアジア人客が釣れると思っているなんて、どれだけ粗末な脳みそをしているんだろう。馬鹿は無視して先に進もうとすると、男はまるで子供のように通せんぼしてきたので、私は英語で「消え失せろ」と言って男をどかした。男は後ろから今度は下手な韓国語の挨拶を大きな声で叫んできたのでつくづく呆れた。イスラム圏の商売人は呼び込みがしつこい上に客が嫌になることばかりして気を引いてくるのがとても残念だった。彼らはどうやらそれで客が呼び込めると思っているらしい。
アンタルヤの街に嫌気が差した私は予定より早くバスターミナルに戻って時間を潰した。10時半になって到着したバスは完全に満席だった。それにしてもトルコや中東の長距離移動ではいつも必ず布団一式をもって移動している人がいるのは何でだろう。行く先の家に布団がないのだろうか。
隣に座っていたスカーフを巻いた若い女の子に挨拶し、メルスィンの友達にメールを送りたいので携帯を貸してもらえないか聞いてみた。バスターミナルにはwifiすらなかったのだ。すると女の子は冷たい目で私を睨んで「ノー」と言った。そして耳にイアホンをつけて眠り始めた。
メルスィンではハカーンというトルコ人の友人に会う予定だった。彼とは去年サンクトペテルブルグのホステルで一緒になって、他のアメリカ人旅行者と一緒に街歩きしたり夕飯を作って食べた思い出がある。私の乗った大手バス会社のメトロ社がやけに長い休憩をしょっちゅう取るせいで、メルスィンに着くまでかなり時間がかかった。海岸線沿いの道はくねくねとしていてバスは一向に目的地に辿り着かなかった。
朝6時に大きな喧嘩の声で目を覚ました。乗客二人とバスの運転手が何かを怒鳴りあっていた。運転手が高速道路の真ん中でバスを止めると、乗客の一人がもう一人の胸倉を掴んで大きな声で叫んだ。運転手は今すぐ降りろと怒鳴った。この喧嘩に驚いた赤ん坊がわんわんと泣き出し、バスの中はカオスの雰囲気だった。この11時間の長距離バス移動はトルコの旅の中でも一番きつかった。
ハカーンはメルスィンのバスターミナルまで迎えに来てくれた。平日だったので、仕事の後落ち合おうよと約束していたにも関わらず彼は親切だった。ハカーンは地域開発の会社でコンサルタントとしていて、新しいインフラの整備に関わったり、外国から企業を誘致して事業を始めたりと、毎日顧客との交渉に忙しいビジネスマンだった。私もいくつかの客先に一緒に同行した。
昼ごはんにはタントゥーニというメルスィン名物をご馳走してくれた。小さなサイコロ状に切った牛肉やラム肉を熱い鉄鍋で焼いてからピタのような薄いパンに挟んで食べる料理で、どことなく日本人に馴染みのある味が気に入って私は2つも完食してしまった。
夕方になるとハカーンのアパートの敷地内に併設されたプールで泳いだ。メルスィンは砂漠のような気候で日中は焼けるほど暑く、水に入ることが出来て本当に気持ち良かった。プールに入っていると、トルコ人の住民がシリアから難民として来て同じアパートに住んでいる家族に「服を着たままプールに入るな」と文句を言っていた。女の子だけではなく男の子までもが、シャツ、セーター、ジーパンを履いたままプールで泳いでいた。しかしお互い言葉が通じないので、コミュニケーションが取れず大変そうだった。
ハカーンによるとメルスィンには350,000人の難民がシリアから避難してきていて、そのうち彼らの生活資金が底をついたら大変な問題を引き起こすようになるだろうと危惧していた。トルコのエルドワン大統領の無計画な難民受け入れ政策のせいでトルコ中がシリア難民で溢れかえっていた。彼らの中には住むところもないため公園に野宿している人も多く、レストランやカフェに座っていると次から次へと物乞いにやってきた。私が出会ったトルコ人全員がこの状況をよく思っておらず、皆いつも文句を言っていた。「これでようやくドイツ人がトルコ人移民のことをどう思っているのか分かったよ」とハカーンは皮肉交じりに溜息をついた。
次の日ハカーンはメルスィンから少し離れたところにあるタウソスという古代都市へ車で連れて行ってくれた。ここは聖人パウロが生まれた町で、クレオパトラとマルクス・アントニウスが逢瀬を重ねた町としても知られている。町の中心にはクレオパトラが凱旋した門も残されている。この町では聖人パウロの井戸、古いモスク、公衆浴場などを見てまわった。昼ごはんにハカーンが連れて行ってくれた滝が流れるレストランで食べた鶏のケバブは今まで食べたものの中で一番美味しく、記憶に残る味だった。
私がメルスィンに滞在している間、イスタンブールで中国政府によるウイグル人(ウイグル系トルコ人はトルコ人と同じ民族)迫害に抗議する団体がデモを行い、中国人に間違われた韓国人観光客の女性が襲撃されるという事件があった。もし日本で同じような事件があったら、私は自分の国が恥ずかしくて恥ずかしくて仕方が無くなると思うけれど、トルコ人にはそういう感覚はないようで、ハカーンは「今や世界中の4人に1人が中国人だっていうのに、それすら見つけられない大馬鹿団体なんだ」と冗談にして笑っていた。
ある日メルスィンの町を歩いていると、若者二人組が私を指差して「チーニー、チーニー(中国人)」とバカにしてきた。イスラム圏ではこうした中国人差別を何度も何度も受けた。もう慣れてきた頃だったけれど、パレスチナを出て以来しばらくこういうことを経験していなかったので、気分が落ち込んだ。ハカーンに「こういうことしょっちゅうあるんだよね」と話すと、トルコに限って言えば一部の人による中国人差別は中国政府のウイグル人迫害から来るものがほとんどだろうと推測していた。
世界中どこの国へ行っても多くの人が中国人観光客の横暴な態度やマナーの悪さに対して文句を言っていた。また中国人の多くが世界各国に移住し、起業し始めることに対して侵略されていくような危機感を持っていた。今やアジア人といえば中国人のことで、しょっちゅう間違われる私にとっても迷惑な話だった。
中国人差別といえば、今でも忘れられないのはイランで受けた差別のこと。小さな町や信仰深い地域に行けば行くほど差別はひどくなった。道を歩いていると人がやってきては私に向かって「チンチャンチョン」と言ってきたり「メイドインチャイナ」などと嘲笑してきた。すれ違いざまに耳元で舌打ちされるのは日常茶飯事で、一度なんて目の前で唾を吐かれたことがある。多くは若い男性、それも二人以上のグループだったけれど時には若い女性にも同じことをされた。お年寄りに馬鹿にされたことは一度も無かった。小さな子供もよく私の前にやってきては、挨拶してくれるのかと思いこちらが笑顔でにっこり笑うと、舌を出して指で目尻を吊り上げて「中国人の顔」を作ってバカにしてきた。それにはかなり傷ついた。
ある町では100メートルの道を歩く間に10人以上の人からこういった差別を受けて、あまりにショックで観光しないままその町を出てきてしまったことがある。イランで中国人が嫌われる理由はいくつかあるけれど、その中でも一番大きいのはイラン国内で売られている粗悪な中国製品に対する不信感からきていた。それは日本国内で売られている中国製品とは比べ物にならない質の悪さで、1回か2回使ったら壊れてしまうようなものばかりだった。イランの一部の人たちは、そういったとんでもない品物を作る中国人はイラン人を騙す、信用ならない人種だとして嫌悪感を募らせていた。
トルコで経験した中国人差別は、イランやパレスチナで受けたものとは比べ物にならないほど軽いものだったけれど、もうこんな思いをするのは心底こりごりだと思ってしばらくイスラム圏から遠ざかろうと決心した。もっとトルコのことが知りたい、ディープな旅がしたい、と思って東に行けば行くほど差別が強くなっていくのは残念だった。ひとりで旅行すると、自分がその景色の中にいることで、その国の見たくなかった一面を覗いてしまったり、人々の自然な顔が見れなかったりすることが結構たくさんある。
よくテレビで見る旅のドキュメンタリーではカメラワークがあまりにも自然なため、視聴者はまるで透明人間になったかのように世界の人々の暮らしを垣間見ることが出来る。でも、現実は違う。特に中東(の特に地方)ではどこへ行っても町中の視線を浴びて、完全に景色から浮き出てしまい、自然に歩き回ることは難しい。よく差別や中傷を受けた国では、自分がこの景色の中に居なければいいのに、この景色を第三者の目から見ることができたらどんなに美しいか、何度も考えたことがある。
メルスィンに2泊したあとハカーンに別れを告げて、次の目的地に向けて出発した。ミニバスを何台か乗り継いでバスターミナルに向かう途中、車内の乗客の注目を集めていることに気がついた。黙って下を向いていると、中学生くらいの女の子が立っている私のバックパックを、自分の足元に置いて支えてくれた。そしてバスターミナルに着くと、高校生ぐらいの男の子が私の重たいスーツケースを引きずって乗り場まで案内してくれた。何度もいいから、いいからと断ったが男の子は黙って荷物を運んでくれた。
「いつも悪いことばかりじゃないじゃん」と私は心の中で呟いた。注目を集めるのはいつも悪いことばかりじゃない。ジロジロと見られるのは、助けたいからということもある。今までの悪い経験に基づいて人を判断するのはやめよう。そうじゃない時だってたくさんある。世界には優しい人たちがたくさんいるのに、誰とも係わり合いになりたくないんだったら旅をしている意味が何もない。私は男の子に何度も「テシェッキュレルエデリム(有難う)」と言ってカッパドキア行きの長距離バスに乗り込んだ。バスの座席に腰を下ろして窓を眺めると、胸が温かい気持ちで満たされていた。
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