パレスチナ~入国拒否、寿司、SMホストと性奴隷たち~

いつもブログを読んでくれて有難うございます。最近はバタバタと移動していてあまり書く時間が無く、リアルタイムとは6ヶ月も差が出てしまいました。昔のことを書くよりもたまには今のことを書くのもいいかなと思ったので、今日は最近の話です。

2週間以上旅したヨルダンを後にして、4月26日にイスラエルとパレスチナに入国した。ヨルダンでは2月にエジプトのカイロで知り合ったドイツ人のレオと一緒に行動していた。カイロから紅海沿岸のダハブという町に向かう夜行バスで一緒になったレオは23歳で、驚くことにドイツを出てからもう2年半も経つ長期旅行者だった。

彼はダハブにある農場でWWOOF(無償で働く代わりに宿泊と食事を提供してもらう)をしていて、私もダハブにあるリゾートホテルで同じようなボランティアの仕事をするために向かっていたので、ダハブに着いてからはしゅっちゅう一緒に色々なところに出掛けて遊んでいた。お互いダハブでの2ヶ月に及ぶ仕事が終わった後、ヨルダンでまたレオと一緒になり二人で旅するようになってからは毎日がとても楽しくて、パレスチナとイスラエルを一緒に周るのも楽しみにしていた。

with Leo and Karen, our great couchsurfing host in Amman
レオと、アンマンでお世話になったカウチサーフィンのホスト、カレンと一緒に

しかし、イスラエルの国境に着いてから何故かレオのパスポートだけ最初に取り上げられてしまい、6時間以上待たされた後に個室での審査官との面談に2回も呼ばれた挙句、最終的にレオはイスラエルから入国拒否をされてしまった。あまりに突然のことに二人とも事実を受け止めるまで少し時間がかかった。入国拒否の理由はレオが十分なお金を持っていないこと、また過去にオーストラリアでワーキングホリデーをしていることからイスラエルでも不法就労をする可能性があることを挙げられた。でも入国審査官はレオの銀行の預金残高を見ることすら拒否したし、レオは10日後にアルゼンチンに飛ぶフライトのチケットだって持っていたのに、全く取り合ってもらえなかった。

他のドイツ人の友達のイスラエル入国体験の話を聞くと、どうしても未だにイスラエルはドイツに対して恨みを持っているんじゃないかと思えて仕方が無い。ヨルダンに戻るレオに別れを伝えてから、私は一人でエルサレム行きのバスに乗り、そこからカウチサーフィンのホストが待つベツレヘムまでタクシーで向かった。(カウチサーフィンとはインターネットを通じて世界中の人の家に無償で泊めてもらい、自分も他の人を泊めてあげる国際交流の団体)

ベツレヘムという町はイスラエルの中に存在するパレスチナ自治区が管轄する町で、イスラエル側の町とは分離壁と呼ばれる高さ8mのコンクリートの壁で隔たれている。国境でのトラブルがあったために元々の予定時間を8時間も過ぎてしまったというのに、私のカウチサーフィンのホストのハッサンは車でわざわざ分離壁まで迎えに来てくれて温かく歓迎してくれた。ハッサンは街の中心部でオリーブの木を使ったお土産物屋さんを経営していた。もともとはハッサンの友達のマリアにホストしてもらう予定が、彼女の都合がつかなくなったので代わりにハッサンを紹介してもらったのだった。

ハッサンは何と夕飯にオシャレな雰囲気の寿司バーに連れて行ってくれて、カリフォルニアロールなど西洋風の寿司をたくさんご馳走してくれた。それまでパレスチナといえば難民キャンプとハマスと自爆テロのイメージしか無かったので、まさかこんなところでサーモンやイクラがたっぷりのっかった美味しい寿司が食べられるとは思っても見なかった。

ハッサンは寿司の他にもパレスチナで作られたタイベイ(アラビア語で美味しいという意味)というブランドの地ビールまで注文してくれた。ドイツで醸造技術を学んだ家族が作ったビールは麦の香りが豊かで、エジプトで時々飲んでいた薄いビールとは比べ物にならないほど美味しかった。寿司バーは地元のパレスチナ人で賑わっていて、皆ウイスキーやらワインやらたくさんのお酒を飲んでいた。それまで行った数々の中東の国を思い出してみても、こんなに公の場でお酒を飲んでいる人を見たのは初めてだった。

ハッサンは昔パレスチナの腕相撲チャンピオンに試合を挑み、10分間どちらも譲らない熱試合の末、二の腕の骨が折れて肉を突き抜けて出てきたという武勇伝を語ってくれた。今思うと本当か嘘か分からないけど、その傷跡はとても痛々しかった。バーではエクスタシーを吸ってハイになっている人もいた。パレスチナ、意外と皆自由にやっているというのが私の初印象だった。

separation wall of Bethlehem
ベツレヘムを取り囲む分離壁

ハッサンが勧めてくれたビールを一本半くらい飲んだ後、ここは是非自分がお会計をしたいと思って立ち上がった。するとクラクラと眩暈がしてきて二分後には意識を失い、自覚がないまま後ろから床に倒れてしまった。意識の遠いところで周りの人が叫ぶ声が聞こえたけど、夢の中の出来事だと思っていた。だってここはテレビによく出てくる「危ない国」パレスチナだし、会って2時間しか経たない男性の家に意識が無いまま担がれるなんて本当に危険すぎる。そんなことことが現実であっていいはずがない。そろそろお母さんでも現れるはず。でもしばらく横になっていたら意識が戻ってきて、ああこれ本当に起こっているんだと実感した。多分今まで4ヶ月間旅してきたイスラム圏で、あまりにお酒を飲む機会がなかったからアルコールの耐性が無くなっていた上に国境でのトラブルもあったし、身体が思った以上に参っていたに違いない。

少し寝たあと自分の足で歩けるようになってからハッサンの車で家に向かった。すると恐れていたことに、イスラム圏でのカウチサーフィンで出会った多くの独身男性ホストがそうであったように、ハッサンもまた私と関係を持つことを望んできて、他に部屋がたくさんあるのに自分の部屋のベッドに私を寝かせた。幸い意識はしっかり戻っていたので、私はハッサンに自分はそういう女ではないことをはっきりと伝えて客用の部屋に案内してもらった。そしてもう二度と酒なんて飲むまいと誓いながら眠りに着いた。

翌朝二日酔いで目を覚ますと、ハッサンの寝室からはだけた格好の女の人が出てきた。こんなに美人の彼女がいるのに浮気しようとするなんて、ハッサンはろくでもない男だと憤慨しながら一人で朝ごはんの食器を片付けていると、今度はなんと寝室の開けっ放しになったドアから二人が事に及ぶ声が聞こえてきて度肝を抜かれた。まさかイスラム圏のパレスチナでそんな状況に遭遇するなんて。

彼女が帰った後、私はハッサンに恋人は大事にしないといけないよと説教した。するとハッサンは、あの子は彼女じゃなくて近所の人妻で二人の子持ちであること、自分はSMが大好きでパレスチナ中に「性奴隷」がいること、彼女もその一人であるという衝撃の告白をした。ハッサン曰く、彼は現在6人くらいの性奴隷を飼っていて、毎週違う女の子が家に遊びに来るらしかった。なんと中には敵対しているはずのイスラエル人や中国人もいた。

そして、「先週その中国人の女子大生を裸にして皆の前で十字架に磔にしたんだ。今度また呼ぶから君も彼女を鞭で打ってみるといいよ。日本人が中国人に復讐する良い機会だろ」と言ってのけた。全く、自分は一体何ていうところに来てしまったんだろう。ハッサンは私も自分の性奴隷になるが良い、これからはご主人様と呼べと言って、私の尻を何度か叩こうとしてきたが、その度に私は彼の股間に鋭い蹴りを入れてこの申し出を断った。

通常の自分ならこんな事実が発覚したら真っ先に荷物をまとめて出て行くところだけど、彼と話している中で恐怖は感じなかったし、無理強いをする人ではないと判断したのでそのまま滞在することにした。イスラム圏でのこういう誘いはよくあることで、最初の頃は憤慨したりショックを受けたりしていたけどなんだかもう慣れてしまった。それに皆、一度はっきりと断るとそれ以上は誘ってこなかった。

またハッサンは面白い性格で、なかなか愛すべき人間性をしていたので、そんなことが発覚しても嫌悪感を感じなかった。ハッサンは41歳、独身でベツレヘムの高級住宅街に建つ二世帯住宅に一人で住んでいた。下には両親の家があった。家族は元々パレスチナ難民だったけれど、ハッサンはアメリカで生まれ育ちオリーブの木のお土産物ビジネスが成功してからはかなり裕福な暮らしをしていた。ベツレヘムというキリストが生まれた聖なる町で作られた、オリーブの木で出来たキリストの像などはアメリカ人の顧客を中心に高値で売られていた。また過去にアメリカでレストランを3軒も経営していたことがあり、ハッサンの料理の腕前は大したものだった。彼の性的嗜好は穏やかではないものの、おしゃべりする分には楽しい相手だった。

Hassan's home
ハッサン宅のリビング

着いて三日目にハッサンは他の二人の性奴隷たちとともに車で死海にも連れて行ってくれた。死海の反対側はヨルダン側のビーチで、一週間前にレオと訪れたのと同じ場所だった。イスラエル側では入場料が1500円もするプライベートビーチに外国人の観光客がごったがえして座る椅子もないくらい混んでいた。ロープで仕切られた狭いビーチは絶え間ない人の動きで水が灰色に濁っていた。

先週いたヨルダン側では無料の公衆浴場で泳いだ。そこの砂浜はゴミで溢れかえっていたけれど、海水はちゃんと透き通っていて濃い塩分の層が肉眼で見えた。また宗教上女性が海に入ることはほとんどないので、他に泳いでいる人は私とレオの他に5人しかいなかった。

イスラエル側からヨルダンのビーチを眺めていると、全く違う世界に来てしまったような気がした。あのゴミだらけの砂浜や、どこへ行くにもヒッチハイクをしたことや、毎日スーパーで買ったフルーツやジャムを塗ったパンでしのいでいたことが途方も無く懐かしく思えた。少ない予算で旅することは、いつも普通とは全然違う濃い旅の景色を見せてくれた。

a Muslim woman floating in the Dead Sea
服を着たまま死海で泳ぐイスラム教徒の女性
at the Dead Sea. other side is Jordan
死海。向こう側はヨルダン

トイレが3つもあるハッサンの豪邸に来てからは、いつも違う性奴隷たちが行き交っている。毎日たくさんのアルコールや煙草や大麻が消費されて、皆自分の野生の本能に従うままに、夜は遅く朝はない快楽的な日々を送っている。ハッサンはカウチサーフィンのホストとしては申し分ないくらい、毎日手の込んだ手料理でもてなしてくれるし、一緒に行動する時は一銭だって私には払わせてくれない。5日間一緒に住んでみたところで、なんとなく女に人気であるわけが分かった気がする。彼の家に泊めてもらえたことを有難く思う。

それと同時に旅をするなかで、自分が迷子になってしまった気がする。数日おきに環境がころころと変わること、誰も昔からの自分を理解してくれる人がいないこと、そして何よりもいつも誰かと別れなければいけないこと。過去9ヶ月の旅の中で、毎日のように出会いと別れを繰り返していたら、もう滅多に何も感じないようになってしまった。それでもレオとの突然の別れがかなり辛く今でも堪えているのは、レオと知り合ってから一緒に過ごした期間が今までの誰よりも長かったからだろう。

graffiti of a Jordanian female soldier on the wall
分離壁に描かれたパレスチナの女性兵士の絵

パレスチナはテレビのイメージとは全く違う国だった。人々の暮らし向きは他の中東の国々と比べると格段に良く、かなり西洋的だった。地元のスーパーでもたくさんの種類の輸入品やアルコールが手に入り、町によってはスカーフを被っていない女性の姿も多かった。難民キャンプはテントではなく、狭いエリアに隙間無く建てられたコンクリートの住宅街だった。また、エジプトなどで考えられない失業手当や健康保険などの社会保障の制度もしっかりしていた。

いつも忌み嫌い合っていると思っていたアラブ(パレスチナ)人とユダヤ(イスラエル)人の関係は、傍目から見る限り思ったほど悪くないようだった。エルサレムで入ったアラブ人経営のレストランはユダヤ人で混みあっていたし、ハッサンの弟のアミンに聞いたところ、現在進行形の戦争がない限りアラブ人にとってイスラエル人は他の外国人と同じような感覚でクールに付き合っているらしい。これには本当に驚いた。それでもアラブ人の方がユダヤ人より大分寛容なところがあるので、ユダヤ人目線から見るとまた違うかもしれない。それにしてもこうやって自分の目で世界を確かめるということにはいつも大きな発見がある。世界の本当の顔を知るということ、それが私の旅の意味なのかもしれない。

entrance of a refugee camp in Bethlehem
ベツレヘムの難民キャンプの入り口。普通の町と変わらない。
at a supermarket in Bethlehem
ベツレヘムのスーパー。品揃えはアメリカと同じ
at a Italian cafe in Bethlehem
ベツレヘムで入ったイタリアン料理の店。ママ友の会も開かれていた。

 

ベツレヘムの教会にあったマリア像
ベツレヘムの教会にあったマリア像

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