カイセリ駅に列車が到着したのは夜中の一時過ぎだった。最初の数車両は寝台車だったけれど自分たちは椅子席だった。9ドルしか払っていないのに、13時間の夜行列車で寝台に乗れると思った自分は甘かった。二年前に会社の休暇でトルコに来た時にイズミルからセルチュクまで乗ったオンボロ列車の内装を思い出して気が滅入ったが、中に入るとピカピカの新しい車両だった。私もアリョーナも椅子の座り心地の良さや自動開閉式扉に驚いた。私たちは窓際の一列の席に向かい合って座り、私は彼女の脇に脚を伸ばして寝た。
もう真夜中をとっくに過ぎているのに人々は寝るどころか騒がしく起きていた。通路の向かいの4人掛けの席ではトルコ人の家族が床にタオルを敷いて赤ん坊を寝かせていた。私たちも寝ようとしたが丁度車両の一番端の席だったので自動開閉扉の音がうるさくてなかなか寝付けなかった。皆人が寝ているのなんてお構いなしに大声で話したり大きな音を立てて通路を行ったり来たりした。突然怒鳴り声が聞こえて振り返ってみると、キセルだろうか、隣の車両から3人の男が車掌か鉄道警察に追われて猛スピードで走ってきた。私は飛行機で貰った薄いアイマスクにイアホンをつけて夜中の3時過ぎに眠りに着いた。
列車の騒がしさに関わらず朝の9時まで一度も目を覚まさずに寝ることが出来た。アリョーナはとっくに起き上がってパソコンで翻訳の仕事に勤しんでいた。彼女は本当に働き者だった。車窓の外にはごつごつとした西部劇のような岩山や、何も無い荒廃した渓谷の風景が見えた。シヴァスの近くだろうか。列車から見る景色は格別だ。
アリョーナが外の景色に目もくれず働く中、私はただボーっと外を眺めていた。どうも私には移動時間を作業に当てる、効率的なことができない。私が旅で一番好きな時間のひとつはこうして長距離列車やバスの車窓から外を眺めては考え事をすることで、時々ふと家族のことや日本での生活を思い出しては感傷に浸ってしまうのであった。
列車は一向に目的に到着する気配がなく、時々GPSで確認してもやっぱり大幅に遅れているようだった。食べるものを何も持ってこなかった私は、朝食にアリョーナからパンと果物を分けてもらったものの、昼食は二人とも食べずじまいで我慢した。予想していた車内販売は一切無かった。
やがて車窓の眺めは岩山から草木が枯れた荒野に変わり、空の色も薄い水色から灰色になった。大きなアパートなどの集合住宅が姿を消して小さな平屋が目立つようになった。銀色のトタン屋根やコンクリートブロックで作った壁などからも、この地域がトルコの中でも特に貧しい場所であることは明らかだった。それにしてもボドルムやカシュで見た、ギリシャの小島やヨーロッパを思わせるような大きな邸宅とこの差は一体なんだろう。まるで他の国に来てしまったかのよう。それもそのはず、ここは地図に載っていない国クルディスタンだった。
クルディスタンとはトルコ東部からイラク・イラン・シリア・アルメニアの一部にまたがるクルド人が多く居住する地域のことで、独立運動や他の住民との衝突などから比較的物騒な話題が多いところだった。クルド人は千年以上前からこの地域に住んでいる世界最大の国を持たない民族集団で、その人口は3000万人以上にのぼり、昔は遊牧の暮らしをしていたが、今では世界中に散らばり現代の社会に溶け込んでいる。私は彼らの国を見るのをとても楽しみにしていた。
列車がエルズルムの駅に到着したのは予定より2時間遅れの午後4時で、腹ペコの私たちは食べ物を求めて一目散にメインストリートを目指した。しかし探せども探せども何処にも何も売っていない。シャッターの下りたカフェを横目に、私は「もしかしてこの地域の人たちは保守的過ぎて外で食事なんてしないのかもね」とため息をついた。その後細い路地に入って更に探すも何も見当たらず、その時ようやく「ラマダン(断食期間)だからか」と気が付いた。
道を歩いている人に「レストランはありませんか」と聞くと、遠くのほうを指差した。私たちはその方向に向かって15分歩いた。まさかラマダンがこんなに大きな影響力を持っていたなんて知らなかった。エーゲ海や地中海に面するトルコの西部では誰もやっていなかったし、やっている人を多く見かけたカッパドキアでもツーリストレストランは勿論、地元の食堂もいつも開いていた。
やっとのことで唯一シャッターが開いたレストランに入ると「営業は夜からだ」と言われた。がっかりしているとその3軒先にも一つ開いている所があったので入ってみた。中は薄暗く食べている人は一人もいなかった。私たちは何だか後ろめたいような気持ちでこそこそと豆のスープとパンを食べた。トルコも田舎の方に来れば物価が半分ぐらいになるんじゃないかと期待していたが、会計をしてみるとイスタンブールの安食堂で食べるのより3倍以上も高かった。それからも色々なところに行ったけれど、イスタンブールより安く食べられる都市はひとつもなかった。
物足りない昼食の後、売店でアイスを買った。果たしてラマダンだからなのか、普段から治安が悪いのか、南京錠が掛けられたアイスボックスを見るのは初めてだった。リュックを背負ってアイスを食べながら道を歩くと、町中の人の視線を浴びた。冷たく軽蔑した目で見る人、友達と笑っている人、驚いて口をあけている人。どうやら外国人でもラマダン中に外で何か食べるのは良くなかったみたいだ。
エルズルムでお世話になる予定のカウチサーフィンのホストは獣医センターで働いているというので、そこを目指した。途中で白いプラスチック製のテーブルや椅子が何百と並べられた大きな広場の前を通った。ラマダン期間中に毎晩無償の夕食が提供される場所のようだ。日替わりで宗教音楽を演奏する歌手が来てコンサートも開催されているらしい。エジプトに居た時に現地の友達から、ラマダン中はお金持ちの実業家や企業がお金を出して貧しい人たちに無償で夕飯を提供すると聞いた。明日はラマダン最終日。私はのんきに「今晩ここで食べられたらいいな」と思った。
獣医センターで迎えてくれたオマールは坊主頭の29歳で、元々エーゲ海沿岸のイズミルという大都市の出身だった。彼はエルズルムの大学で生物研究の博士号を取得中で、大学付属施設のこのセンターで臨床研究をしていた。イズミルはイスタンブールよりももっと国際的な人が多く、垢抜けた都市であると聞いていたので、保守的なエルズルムで暮らすのは大変ではないかと聞いてみた。
「大変だよ。だってここはトルコでも一二を争うイスラム色の濃い保守的な街だからバーもクラブもないし、女の子と歩くこともできない。学業のために牢屋に入っているような気持ちだよ。だからカウチサーフィンで新しい国の友達に出会うと、まるでエルズルムに居ることを忘れられるようですっごく楽しいんだ。」オマールは一見強面だけど、明るくて聡明な人で私たちは彼にすぐ好感を持った。来る途中のアイスクリーム騒動について話すと、震え上がるような回答が返ってきた。「この街のやつらはイカれてるんだ。俺はラマダン中に外でものを食べて道で袋叩きになってる人を見たことがあるよ、それも一回じゃない。ここはトルコにあってトルコじゃない、特別な国なのさ。」
オマールは古いアパートの一室でインコ一羽とハムスター8匹と一緒に暮らしていた。彼はハムスターが大好きで自宅で繁殖させてはペットショップに売ったりしているらしい。また北朝鮮に興味があって冗談で金正恩の写真が飾ってあった。
私はオマールに今晩ラマダン広場で夕飯を食べることを提案してみた。すると彼は顔をしかめてこう言った。
「俺はラマダンが嫌いだ。イスラム教徒がラマダンをする理由は絶食することで貧しい人たちの辛さを理解することなのに、毎晩日が沈んでは食べきれないほどのご馳走を作って夜遅くまで大騒ぎだ。やつら目的を見失ってるのさ。それにラマダン中に毎晩広場で提供される無料の食事は貧しい人たちのために振舞われているのに、みんなタダ飯が食いたくて毎晩広場に押し寄せてる。俺は絶対に食べないよ、だって自分には食べる資格がないからね」
オマールの言ってることは本当にその通りで、私は自分が恥ずかしくなった。イスラム教徒でもないのに、広場で大勢の人たちと肩を並べて無料の食事を食べて「ラマダンを経験した」って言いたかっただけだった。
大きなスーパーに夕飯の買出しに行った。うっかりポーチにポケットナイフを入れてきてしまったので警備に取り上げられて、後で返してもらうのに苦労した。オマールは気前がよく、夕飯の材料とワイン代を全部支払ってくれた。彼はスキンヘッドや足の刺青からして一見強面だけど、ハムスターが好きだったりユーモアのセンスがあって面白い上に良い男だった。
夕飯はアリョーナがロシア風ポテトを作ってくれた。私は2週間以上前にギリシャのカステロリゾ島で買ったポークソーセージがリュックに入っているのを思い出し、「自殺行為だ」と罵る二人を無視してフライパンで焼いて食べた。ギリシャ本土を出て以来久しぶりに食べる豚肉は美味しく、翌日おなかを壊すことも無かった。
翌日オマールは仕事が休みだったのでエルズルム見学に連れて行ってくれた。エルズルムはセルジューク朝トルコ時代に主要都市のひとつであった為、市内にはこの時代の建築物がたくさん残っている。今までトルコで見た建物とは全く異なり、暗い色のレンガや石をたくさん使ったその建築はソ連を思わせるものが多い。おそらく建物のスタイルはこの土地独特の灰色の空や雨が多い陰鬱とした気候の影響を受けているのだと思う。神学校、モスク、要塞などを見て周った。要塞見学を終えた後、突然の雷雨に襲われ門の下で雨宿りした。要塞の中にあった建物の屋根がアルメニアの教会の屋根と全く同じ造りだったのを見て、この土地一体が昔はアルメニアの領土だったことを思い出した。
その後一旦昼食を食べにアパートに戻ったあと、郊外の丘の上に立つ古い要塞を見に行くため出発した。そこへ向かう途中通ったスラム街では、壁のレンガが崩れて中には今にも崩れ落ちそうな貧しい家が建っていた。ボロを着た子供が路地で遊び、無造作に干された洗濯物が風にはためいた。要塞の立つ丘は軍事基地になっていて、かなり遠回りしないと入り口まで行けない事が分かった。そして1時間以上歩いた後、その先まだ3時間かかるということを聞き、諦めて市内に戻った。
エルズルムの町を歩いていると、私だけ人の視線を痛いほど感じた。5回以上、耳にはっきりと「チャイナ」という言葉が聞こえた。笑われたこともあるし、指をさされてはっきり罵られたこともある。これにはいつになっても慣れることができない。
ラマダン中は「ちょっとお茶でも」することが出来ない。でもオマールが唯一可能な場所を知っているというので着いていくと、そこはショッピングモールの最上階にあるフードコートだった。客は少なかったけれどぽつぽつと家族連れが席に座って、ラマダンなんて関係ないよと言わんばかりにバーガーキングやドミノピザを頬張る姿を見て私は少し安心した。オマールはフードコートの更に上の階にあるカフェに連れて行ってくれた。私はタブレットで注文するその最先端カフェと今さっき見たばかりのスラムを思い出し、なんだか気持ちが晴れなかった。
お茶を飲んでからラマダン広場の前を通って帰ると、ラマダン最終日の日が沈んだ後で何百人もの人が無料の夕飯を食べているところだった。外国人である私たちに気が付いた人が「おいでよ」と手招きして誘ってくれたが胸に手を当てて断った。帰る途中の大通りは空っぽで車1台通っていなかった。皆家族と食事をしに家に帰ったようだ。その誰も居ない街の雰囲気がお正月の日本とそっくりで懐かしい気持ちになった。新たなるはじまりを胸に感じる。空気がしんとしていて、歩くと背筋が伸びる感覚。といってもエルズルムの街は大掃除されたわけじゃないのに車が通っていないだけでこんなに違うとは。
夕飯の後オマールに連れられてまた市内に出て行くと、街の様子は静かなお正月からすっかり変わり今まで見たことのない賑やかさだった。皆家族との食事を終えて、ラマダンが終わったことを祝いに外へ繰り出してきたのだという。オマールは古民家を6つ繋げて作った伝統家屋スタイルのカフェに連れて行ってくれて、私たち3人はそこで静かにお茶を飲みながらラマダン明けを祝った。
翌日のトルコの最高峰アララト山行きにオマールも加わることになり、そこで何が待っているかなんて知る由もなく眠りに着いた。
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