駅に着いてすぐに次のモスクワ行きの切符を買っておこうと思って窓口にいった。窓口には虫眼鏡みたいに分厚い眼鏡をかけたおばさんが座っていた。眼鏡はきっと共産主義の時代から同じものを使っているんだろう、風貌に歴史を感じた。アーニャにロシア語で書いて貰った「4日後のモスクワ行きのチケットを下さい」という紙を渡すとロシア語で何か返答した。「あの、英語わかりますか」と聞くとおばさんは私の目を真っ直ぐ見て「ニエーット!(ノー)」と言った。ガイドブックの後ろについていた会話帳を開いて意思疎通しようとするも、後ろに並んでいた人がどんどん割り込みしてきて私は30分くらい放置された。やっとの思いで買ったチケットは250ドルくらいした。ウランバートルからモスクワまで直通だと100ドルもしないのに、やはり途中下車すると一気に高くつくなぁと愕然とした。そしてフェリーに乗れなくなったために、荷物を引いて宿を探しに歩いた。
イルクーツク駅からほど近い住宅街にあるホステルはカジャという30代くらいの笑顔が可愛い女性が経営していた。カジャはとても親切で、翌日のフェリーを予約してくれたり、あまりお金がないけどロシア料理が食べたいという私に安くて美味しいレストランを地図に書いて紹介してくれた。カジャは日本の文化や文学が大好きで何本もドキュメンタリーを見たり、阿部公房や村上春樹の本を読んだりしていた。客層は私より年上のロシア人男性ばかりで、皆静かというよりちょっと暗く英語はほとんど通じなかった。私はホステルに行くたび新しい友達をつくって夜遅くまで話すのが好きだけれど、全くそんな雰囲気ではなく夕飯を食べて10時に戻ってくると既に消灯していた。私もその日は早く寝て、シベリア鉄道の疲れを癒した。
翌朝フェリーに乗り、正午前にボリショイコティーに着いた。バイカル湖は面積が31,000キロもあり、湖畔にはたくさんの町や村がある。イルクーツクから観光する場合はだいたいリストヴィヤンカという町を拠点にする。しかし、なるべく観光地化されていない場所に行きたかったのでリストヴィヤンカから20キロ離れたボリショイコティー村に宿を取った。ボリショイコティー村は個人商店が一つあるだけの小さな村で、人はほとんどいなかった。バイカル湖の水は透き通っていたが、深いので遠くから見ると海のような色をしていた。向こう岸には山がぼんやり見えるだけで湖の中心にはいつも霧がかっていた。
フェリー乗り場には宿のオーナーのアレクセイが迎えに来てくれた。アレクセイは40代くらいで一人で宿を経営していて、冬場は毎年宿をたたみインドにヨガの修行に行っていた。必要なこと以上は話さない、どこか変わったところのある男性だった。宿には先客がいて、ロシア人の女の子が二人泊まっていた。キシューシャはイルクーツクの旅行会社で登山ガイドをしていて、昨日から友達のレオナと二人で一泊して今日の午後のフェリーで帰るといった。私はアレックスに誘われて4人で湖畔の山にハイキングに行った後、昼食に日本から持ってきたルーを使ってカレーを作った。
ロシア人というと今まで冷たいイメージしかなかったが、キシューシャは明るくて天真爛漫だった。高校生の時に金沢に一ヶ月ホームステイしたことがあり、日本語が少し話せた。レオナは控えめだったがとても気が利いて、一緒にカレーを作っている時にこまめに手伝ってくれたのが印象的だった。二人は食後のデザートに森で摘んできた木苺を煮てジャムを作ってくれた。ジャムは紅茶に入れてロシアンティーにし、外のテラスで飲みながら日向ぼっこした。
やがてリュックを背負った3人組がやってきた。トルコ系ドイツ人のエミレという男の子と、スイス人のアレクシアとロマーナという女の子たちだった。3人ともスイスの大学の同級生で、夏休みを利用してシベリア鉄道でロシアのサンクトペテルブルグからモンゴルを経由して北京に行くという壮大な旅をしていた。驚いたことにエミレとアレクシアは二人とも東京の大学に昨年一年間留学していて、エミレに至っては北京に着いた後東京へ飛びもう半年日本で学ぶ予定だった。キシューシャとは数日後にイルクーツクで再会する約束をして別れた。午後はエミレたちと湖畔を散策し、ビールを飲みながら共通の話題に花を咲かせた。
翌朝はこの宿に3ヶ月位泊まっているカザフスタン人のおばあさんと話した。おばあさんといっても70代くらいで背筋がぴんとしていてポニーテールにヨガのつなぎ服がよく似合っていた。おばあさんは結婚して孫も3人いるが、昔から旅が性分でずっと家で家族と過ごしていると頭がおかしくなってしまいそうになるからという理由で、夫や子供たちの許可を得て一年の大半を放浪していた。春は半年くらいインドやアジアでヨガや瞑想の修行をして、その後3ヶ月くらいは友達であるアレクセイの宿で掃除などの手伝いをしながら夏を過ごし、残りの3ヶ月を家族と過ごすのが毎年の流れだった。さみしくないのかと聞くと、近くにいるとお互いありがたみが分からなくなって時には傷つけあったりするからこれぐらいの距離がちょうどいいのさと笑った。そんなおばあさんでも今年は新しい孫が生まれたので顔を見るのを楽しみにしているらしかった。こんなパンチのきいた人に出会えることが私の一人旅の醍醐味のひとつだった。
おばあさんは私にキノコ狩りを勧めた。近くの森にある秘密の場所を教えてくれたので、私は午後にエミレたちを誘って行ってみた。森の茂みの中には今まで見たこともない種類のきのこがたくさん生えていて、私たちは夢中でかばんにつめた。何十個もとったにもかかわらず、おばあさんに見てもらったところ4つを除いた全てが毒キノコだった。
夜はそのキノコでチーズリゾットを作って食べた。出汁が出ていて絶品だった。バンヤと呼ばれるロシア式サウナにも入った。中は杉や松の良い匂いがして温度が通常のサウナほど高くなかったので長く入っていられた。ドイツやスイスではサウナは男女混浴で皆裸で入る習慣らしいので私もそれに倣った。
その次の朝は宿をチェックアウトして、エミレたちとリストヴィヤンカまで20キロ歩いて夕方のフェリーでイルクーツクに戻ることにした。リストヴィヤンカまでの道は歩きやすい山道と聞いていたけれど、何時間か歩いたあと湖の崖っぷちを沿う危ない道に出た。手を引っ張ってもらわないと崩れ落ちてしまうような場所がたくさんあり、私たちは横歩きで恐る恐る進んだ。もうこれ以上は危なすぎて進めないという時になってようやく引き返すことにした。やっとの思いで昼食を食べた入り江まで戻ると歩いてきた道の入り口に小さな木の看板があり、「デンジャラスロード」と書かれていた。私たちは正規のルートを探し、山道を合計7時間以上歩いてようやくリストヴィヤンカに到着した。
大変だったけれど、道中色々な話をし、同じ苦労を分かち合ったことでたくさんの思い出ができた。また森の中ではボリショイコティのずっと奥にある村から犬を連れて何日間かかけてイルクーツクまで歩いているロシア人のおばあさんに出会った。おばあさんは小さなリュックを背負い、テントを張りながら息子の住むイルクーツクを目指していた。私たちは今日あるいただけでもクタクタだったのに、この小さなおばあさんは底知れない怪物だった。
最終フェリーを逃したのでバスでイルクーツクに戻り、エミレたちと別れて一人カジャの宿に戻った。カジャは私の冒険を聞いたあと、「シベリア鉄道で食べてね」といってビニール袋に入ったピロシキを差し出した。なんと私がピロシキが好きだといったことを覚えていて、わざわざ作って焼いてきてくれたのだった。「すごく嬉しい!ありがとう、カジャ。パン屋さんみたいに綺麗に焼けてるね」というと「そんなに褒められると恥ずかしくて何て言ったらいいのか分からない」と顔を真っ赤にして下を向いた。ロシア人はヨーロッパ人のような見かけをしているのに、仕草や行動がどこかアジアの少数民族のように純朴で本当に可愛らしいのだった。
その夜はボロ雑巾のような身体を休めて、翌日は市内でキシューシャやエミレたちと最後に会った。エミレはしばらく東京に行くので、来年くらいにヨーロッパで会えるといいねと言い、アレクシアとロマーナとは9月にスイスで再会する約束をした。そして私はまた荷物を引きずり、鉄道駅に向かった。今度こそ本物のシベリア鉄道に乗り込んだ。
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