グレーと赤の車体の前には各車両ごとに無愛想なロシア人の女車掌が立っていて、パスポートチェックを受けたあと中に入った。「地球の歩き方」にはシベリア鉄道に乗ると必ずロシア人の同室者から食べ物が分けられ、ウォッカも振舞われ、お腹いっぱいの楽しいコミュニケーションタイムになると書いてあったので、私はそれを見越してスーパーで少なめの食料を買い込んできた。しかし同室のロシア人2名は全く英語を話さず、笑顔一つなく、私が差し出したチョコレートさえ断られてしまった。ああ、モンゴル電車とは大違いだ。アーニャたちとの旅はなんて楽しかったんだろう。私はふて寝した後、9時位に空腹で起きて食堂車を見学しに車両を彷徨った。
6両くらい歩いたあと窓の外を眺めている外国人をみつけた。彼は私がモンゴル人だと思って目が合うとモンゴル語で挨拶してきた。ジョンは30代のアメリカ人でウランバートルからずっと乗っていた。彼は学校を卒業して海軍で数年働いたあと、韓国やタイのアメリカ系企業でコンピューター関係の仕事をしていた。3年に及ぶバンコクでの仕事の契約が切れたので、クリスマスに故郷の家族に会いに帰るまでの間ずっと旅行をしていた。モンゴルでは同じ宿に泊まっていたドイツ人と二人でツアーを組み、2週間も例のジープでゴビ砂漠や草原をまわっていた。
やがてそのドイツ人が現れた。体格が大きく、筋肉が隆々としていて腕や足に大きな刺青をしていた。笑顔でお茶目な性格の彼はバレンティンと名乗った。バレンティンは23歳でスイスのチューリッヒで男性看護師として働いていたが、去年仕事を辞めて半年間東南アジアにバックパック旅行しに出掛けた。東南アジアの旅が終わったのでモンゴルへ飛び、これからシベリア鉄道に乗ってドイツまで帰る途中だった。彼は強面な見掛けによらずとても優しく繊細な心の持ち主で、旅中に感じたことなどを感性豊かに話してくれた。また若いのに話にとっても味があるやつだった。モンゴルのシャワーの話をしてくれたのも彼だった。ジョンとバレンティンは果物を切ったりカップ麺やサンドイッチを作ってくれて、初対面なのに3人でゲラゲラ笑いながら夜中まで話した。新しい仲間を見つけることができて私はぽかぽかした気持ちで眠りについた。
その翌日からモスクワに着くまでの3日間、私たちは四六時中つるんで遊んだ。まず昼ぐらいに起きて、手持ちの食料をリュックに背負って誰かのコンパートメントに集まって朝ごはんを食べるのが日課だった。バレンティンは1両目でジョンは5両目、私は11両目に乗っていたので一日中戻らなくて済むように朝はその日の荷支度に余念が無かった。忘れ物をした時は悲惨で一車両に固いドアが4枚もついていたので最大44枚も開けないと自分のコンパートメントに戻れなかった。シベリア鉄道は表向きには禁煙となっていたが、車両と車両の間には車掌も含む大勢が隠れて煙草を吸っていた。朝ごはんにはよくサンドイッチを作り、備え付けのサーモメーターから熱湯を持ってきてプーアール茶を飲んだ。
朝ごはんを食べたあとは皆で食堂車に行った。食べることと寝ることしかすることがないから仕方なかった。食堂車には男性コック一人と女性ウェイトレスが一人乗っていて、お客はほとんど居なかった。中は古いけれどレストランのようにテーブルが並んでいて食事をしながら外の景色が見れるという体験が初めてだったので大変気に入った。メニューは恐ろしく高かった。例えばボルシチは一杯700円、ビーフステーキは1400円。何でもお金がかかってサラダにマヨネーズをつけるのも追加で60円だった。それでもボルシチは電車の中で作ったとは思えないほど美味しくて、毎日これを飲むのが3人の楽しみだった。
食べたあとは引き続き食堂車の中でカードゲームに興じた。いつもやっていたのは数字を順番に出していって誰が嘘をついているか当てるものだった。そんな単純なゲームでも他にやることがない私たちには最高の娯楽となり、昼の12時から夜中の2時までずっと遊び続けた日もあった。ジョンとバレンティンは毎日無愛想なウェイトレスをからかっていたので私たちは忌み嫌われてしまい、ウェイトレスに追い出されたりした。カードに飽きると途中下車休憩を利用して、時には10分、時には30分くらいホームに出て足を伸ばしたり売店で新しい菓子を買って食べた。シベリア鉄道はアナウンスが全くないので時間に気をつけていないと無情にも置いて行かれる恐れがあった。またドアを開けるのが億劫だから電車が止まっているときにホームを歩いて自分の車両に戻ったりした。午後は時々昼寝した。
夜はまた誰かのコンパートメントに行って夕飯を食べた。持っている食料が限られてるので朝ごはんも夕飯も同じメニューだったが、皆で一緒に食べるから楽しかった。食べた後はビールを飲んでコンパートメントを締め切り、大音量でヒップホップを掛けながら歌ったり踊ったりした。ジョンはラッパーのリルジョンの真似が上手かったので皆でリルジョンの曲を聴きながら大ふざけして盛り上がり、金曜日の夜モスクワに着いたら必ずヒップホップのパーティーに行こうと固く誓い合った。
バレンティンのコンパートメントは彼以外全員モンゴル人の学生で、一緒にカードゲームをしたり歌ったりして遊んだ。ある朝バレンティンが起きた時コンパートメントの中でモンゴル人8人がビールを飲んでいて、彼も勧められたが早朝なので断ったらキレられるという事もあった。シベリア鉄道は乗っている時間が長いほどクレイジーな乗客で溢れていた。夜遅くなるとそこらじゅうで飲みすぎて床にうずくまって吐く人がいた。夜中の途中下車ではアイスを買って食べて毎晩2時過ぎに解散した。シベリア鉄道では車窓の景色を見ながら読書をして感傷にふける予定だったけれど、本なんて1ページも読むことなく時間はあっという間に過ぎていった。
3日後にようやくモスクワに着くと、ホームにはアーニャが迎えに来てくれていた。私は嬉しくて抱きつき、新しい仲間を紹介した。3人で同じドミトリーに泊まることにしていたのでモスクワのホステルに向かった。初めて見るモスクワは非常に洗練されていて美しい町だった。道には黒く光る石畳が敷かれ、建物はどれもヨーロピアン風で壁は色とりどりのパステルカラーで綺麗に塗られ、美しい装飾であふれていた。道には無造作に路上駐車されたベンツ、フェラーリ、メルセデスなどの高級車がはるかかなたまで続いていた。見上げると高級アパートの窓には大きなシャンデリアの灯りが煌々ときらめき、中にどんな金持ちが住んでいるのか私たちの好奇心を煽った。4人部屋にはロシア人のアレックスという先客の若い男がいた。蛇みたいな目をしたどこか気持ちの悪い男で、何を考えているのか分からない節があった。私たちとアーニャはウズベキスタン料理の店で夕飯を食べて、夜はクラブに踊りに行った。
同じ宿に泊まっていた日本人の田中君も誘った。彼は19歳の登山家で、東京の登山用品で働きながらキリマンジャロやモンブランに単独登頂していた。つい先日ロシアにあるヨーロッパ最高峰のエルブレス山へ登頂したばかりで、日本へのフライトを待つ間モスクワ観光していた。3時過ぎにクラブから戻ると、アレックスは何とベッドに裸の女を連れ込んでいた。私たちは気味が悪くなった。驚いたことにこの宿には秘密があった。宿は外見も設備も非常にきれいな大型ホステルだが、地下はクラブになっていて夜遅くになると売春婦がやってきて客を待ち、商談が成功すると上にある部屋で行為に及ぶのだった。「まさか売春宿だったなんて」私たちは唖然とした。アレックスは私にも「彼氏がいなくて寂しくないのか」としつこく言ってきたり、夜中誰も居ない廊下で急に後ろから声を掛けてきたりして本当に不気味な男だった。
翌日はジョンと赤の広場に建つワシリイ大聖堂を見学しに行った。テレビでしか見たことがなかった玉ねぎ形のドームはまるでディズニーランドの作り物のように現実感がなく、カラフルで写真栄えした。
しかし何と言ってもモスクワで一番美しかったのは地下鉄の駅だった。モスクワの地下鉄はすべての駅が違うデザインで、大理石やシャンデリアで飾られていた。決して成金風の豪華さではなくて、蛍光灯を放射線状に並べて光を演出したり、大理石も赤と黒だったり旧ソ連の美意識は少し毒があって見事だった。
モスクワの町の中には旧ソ連の名残のようなものがちらほら見受けられた。例えば地下鉄の切符はすべて係員が窓口で販売していた。機械も何台かあったがしょっちゅう壊れていた。地下鉄に下る際にはとてつもなく長いエスカレーターに乗るのだが、各エスカレーターには必ず職員が二人ボックスに入って事故などを監視していた。ホステルのランドリールームにいくと4畳くらいの小さな部屋に洗濯機や乾燥機が置かれていて、専属の係員がいた。コインでまわせるようにすればいいのに、わざわざ人を配置するなんて労働の機会を生むための旧ソ連スタイルだろうかと思った。まだ8月の終わりだというのにモスクワの空気は冷たく、ダウンジャケットがないと外を歩けなかった。またモスクワではほとんどの人が英語を話さなかった。英語なんて必要ないのだろう。町で見る外国人も、ウズベキスタンやカザフスタンやキルギスやウクライナやトルクメンスタンなど今まで出会ったことがない国の人たちばかりで、依然この地域ではロシアが世界の中心なのだということが感じられた。
次の日はバレンティンとトレチャコフ美術館を見学した。その日バレンティンは午後にベルリン行きの飛行機でドイツに、ジョンは別の友達を訪ねてドイツのデュッセルドルフにそれぞれ旅立っていった。その前の晩に3人でビールを飲んだ時にバレンティンがしてくれた話が今でも忘れられない。
それは人を川に例えた話で、いつも変わらないと思っているけれど実際は毎日川を流れる水が変わるように人も変わっていって、気持ちによって早く流れたり遅く流れたり、周りの石や木の影響で形を変えたり、他の川と合流したり離れたり、確かな形があるようでいて、実際には形が無いものであるという話だった。何でそんな話になったのか覚えていないけれど、とても心に残っている。
モスクワに一人残された私はプーシキン美術館や全ロシア博覧センターなどを見学した。プーシキン美術館はトレチャコフ美術館に比べてほとんど人がいなかったので、ピカソやマティスやルノアールやゴーギャンなどの一流作品を独り占めすることができた。印象派好きには天国のような美術館だった。特にルノアールの「ジャンヌ・サマリーの肖像」はずっと見たかった作品で額縁から滲み出る美しい微笑みに心が吸い込まれそうになった。
全ロシア博覧センターは、昔ロシアの農業博覧会の会場として作られた施設で広大な敷地の中には旧ソ連各国のパビリオンやスターリン建築と呼ばれる旧ソ連時代の壮大なスケールの建物がいくつも並んでいて圧巻だった。入り口にはロケットミサイル発射を記念する勝利塔など旧ソ連の偉業を称える施設もあり、ノスタルジーを感じた。
しかしモスクワでは良いことばかりではなかった。私はイルクーツクを出る時にロシア国内用の携帯のSIMカードを5000円で買ったのだが、初期設定しても動かなかったのでモスクワで同じ携帯会社のオフィスに持っていった。すると係員はイルクーツクで買ったものならモスクワでは対応しない。不服があるならSIMカードを製造した会社に電話で問い合わせろと言った。私はロシア語が分からないので電話はできない、頼むから助けてほしいと下手に出たが、手で「シッ」と払いのけられて終わりだった。その後別のオフィスを4箇所まわったが誰も助けてはくれず、私はなくなく5000円をどぶに捨てた。「自分の会社が売ったものなのに、そんな対応しかしないなら本社に報告するよ」という日本風の脅しもかけてみたがそんなものは全く通用しなかった。
その後サンクトペテルブルグ行きの切符を買いにモスクワ駅に行った。日付によって値段が変わるので、紙に2つの日付を書いて値段を尋ねた。安い方をペンで丸く囲い、「これを1枚下さい」と言って渡すとおばさんは何を勘違いしたのかチケットを2枚も発行してしまった。「そうじゃないんです、9月3日発の1枚だけでいいんです」というとおばさんはロシア語で烈火のごとく怒り、お前に売るチケットはないと言って私のパスポートを投げ返した。おばさんは切符を売ることが仕事なのに、なんで個人的な気持ちで客を拒否することができるのか私には全く理解することが出来なかった。
「ちょっと待って」と言っても完全に無視され、どんどん次の客が通された。私は必死で英語が話せる人を探すと、年輩の優しそうなおばさんが英語のできる娘に電話してくれて私はようやく切符を買うことができた。駅に着いてから切符一枚買うだけに40分。私は優しいおばさんに何度も礼を言って駅の外に出た。すると今日起きたことの悔しさがこみあげてきて私は歩きながら泣いてしまった。「なんでこんな簡単なことひとつうまくいかないんだ」言葉の通じない国を一人で旅行するなんて自分で選んだ道なんだから仕方ないのに、その夜は何度も何度も携帯会社の係員や窓口のおばさんの冷たい目が浮かんできて悔しくて眠れなかった。
書きながら振り返ってみるとそんなの小さなことで、それよりも楽しいことや魅力的なことがロシアにはたくさんあったのに、このふたつの出来事は私のロシア滞在に暗い影を落とし、その後誰かに「ロシアどうだった」と聞かれると「うーん」と考え込んでしまうのだった。
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