翌日はグルジアの祝日だったようでルスタベリ通りでは伝統衣装を着た人たちのパレードを見学した。どこかでは花火も上がっていたたらしい。
その後は毎週末川沿いで開かれているフリーマーケットに行き、アンティークや骨董品を冷やかした。出店の人たちはただのガラクタでもアンティークだと言い張って日本並みの強気の価格を提示してきた。並んでいるものは結構面白いものが多いのに、売り手たちは残念だった。
その次の日はまだトビリシにいた耀平君を宿に呼び、夕飯を作ってナタたちと4人で食べた。
耀平君と話しているうちに3日後にアッパースワネッティ地方にあるメスティアまで一緒に行こうという話になった。アッパースワネッティ地方はカズベキ村とは反対にあるロシア国境沿いの地域で、自然の美しさから世界遺産に登録されていた。その中心となるメスティアという町は「復讐の塔」という石造りの高い塔が有名で、かつてそこに住んでいた少数民族たちはグルジア人との争いのなかで復讐されると家族や家畜を全て連れて塔に逃げ込み、1週間以上閉じこもりながら敵に石を投げて退散するのをじっと待ったという歴史がある。グルジアで最も有名な観光名所のひとつだった。
次の日は風邪気味だったので宿で休み、回復した翌日はトビリシからマルシュルートカで30分くらいのところにあるムツヘタという世界遺産の町にお祭りを見に行った。バスの中でアイルランド人のマイクという、グルジアで英語教師をしている同世代の若者に出会ったので一緒に行動することになった。マイクはボランティアの教師団体に所属していて、同じくそこから派遣されてグルジアで教えているアメリカ人の女の子と男の子にも出会った。街は七夕祭り並みの大賑わいだった。ムツヘタの中心には大きくて歴史のある教会が建っていて、かつてグルジアを統治していたタマラ王女の墓があることで有名だった。グルジア人は皆この王女を誇りに思っていて、教会の床に埋め込まれた墓石には絶え間なく人がキスしていた。
大きな通りには屋台が並び、設置されたステージでは子供たちが伝統衣装を着て迫力のあるダンスを踊った。グルジア伝統の踊りはリズム感と全身を大きく使った動きが特徴的で、ポップだった。ダンスの後は子供たちののど自慢大会が開かれ、小さな女の子が可愛い歌を披露した。
お腹が空いたのでレストランに行こうとすると、マイクの知り合いのグルジア人に出会い一緒に食事することになった。他のアメリカ人の二人は彼が英語が分からないことをいいことにグルジア人の悪口で盛り上がった。全員ではないけれど、アメリカ人は自国の文化が他よりも優れていると思い込んでいる人が多くて、彼らのグルジアに対する愚痴を聞いていると心底うんざりした。また彼らはどこの国でも英語が通じることを期待していて、相手が分からない様子だとさらに大きな声でゆっくり単語を復唱するのだった。ジェスチャーに切り替えようという頭が全くないらしい。小さな子供に話すような態度が相手を馬鹿にしているようで見ていられなかった。マイクの知り合いはそんな彼らと私たちの分をすべてご馳走してくれた。「君たちがグルジアでたくさん良い思い出ができるように」と言って。
夕方にトビリシに戻り、荷物をまとめて駅に向かい耀平君と落ち合った。今晩の夜行列車でメスティアに向かうのだった。電車の中はシベリア鉄道と同じような作りで、4人寝台のコンパートメントではぐっすり寝ることが出来た。
耀平君は「夜行列車の旅って本当にいいですよね。日本は夜行列車を全部廃止してしまって本当に残念だ」とぼやいた。私も夜行列車が何よりも好きだ。日本では乗ったことがなかったけれど、実に心地よい移動手段だった。何よりもスピードを重視する日本は大切なものをたくさん捨ててきてしまった。
まだ夜が明けないうちにズグディディという終点駅に着いた。ここからメスティアまではマルシュルートカに乗らないといけない。発車時間まで売店の横でチャイをすすっていると、いつのまにかマルシュルートカが出発していて耀平君と追いかけて飛び乗った。マルシュルートカは険しい山道をひた走った。途中の休憩で食べたパンが美味しかった。中に羊肉のミンチと赤唐辛子が入っていて、耀平君は「グルジアの食べ物って外れがないなぁ」と嬉しそうに頬張った。5時間かかってマルシュルートカはようやく町に着いた。辺りには復讐の塔がそびえ立ち、木々は紅葉満開で美しかった。
本当はこの先にあるバス停で下ろされるはずなのに、何故か運転手は民宿の前で降りるように促した。降りると民宿で働くおばさんが客引きをしていたので部屋を見ることにした。部屋はきれいで、食事も3食付のうえ値段もこっそり私たちだけ安くしてくれたのでそこに決めた。朝ごはんを食べてから、その日は「十字架の丘」に登ることにした。町を囲む丘のひとつで、てっぺんには十字架が立っていたためこう呼ばれた。
丘は下から見るよりも結構急で大分息切れしながら登った。登っている間耀平君とは日本食の話ばかりしていた。耀平君は平成生まれのくせにとても気遣いができて、礼儀正しくて今時珍しい若者だった。8月にネパールから出発して、インド、パキスタン、イラン、アルメニア、グルジアと陸路でじっくりと旅していた。来年の4月からは東京にあるインド旅行専門の旅行会社に就職が決まっているらしかった。
3時間くらいしてやっと頂上についたものの、周りは雲がかかってしまい景色は期待したより良く見えなかった。晴れていたら尾根づたいに他の山にも行けたはずだったが諦めた。
帰り道に前方でガサゴソと物音がするので目を凝らすと、なんと巨大な野生の猪が姿を現した。なんとか写真に納めようとしたものの、猪は白い巨体を翻しすばやく森に戻っていった。
降りた麓には塔がたくさん建っていて、間近で見ながら写真を撮っていると住民の男性に声を掛けられた。言葉は全く通じないがどうやらうちの塔に登っていいよと言っているらしい。男性に案内されて敷地に入ると、塔にはとても急な木の梯子がかかっていた。足を掛けるとミシミシと音を立て全体が大きくしなった。塔の中は薄い木の板でいくつもの階層に分かれていて、梯子を下の階から持ち上げて上の階に上るのに使った。
中は真っ暗で時折石の隙間から光が差す以外には何も見えなかった。耀平君と大騒ぎしながら4層か5層登ってようやく塔の屋根の上に立つことができた。眺めもよかったし、何よりこんな貴重な体験をさせてもらったことが有難かった。
塔から降りた後、男性は庭で取れたりんごや汲んで来た炭酸水のペットボトルをお土産に持たせてくれて、そのうえ車で宿まで送ってくれた。車の中では新しくできたアジア人の友達のためにと気を利かせてカンナムスタイルを爆音でかけた。モンゴルでも同じことがあった。「それはうちの国の曲じゃないよ」なんていうのも野暮だから、そういう時はいつも楽しく盛り上がることにしている。
男性にはあまりに良くしてもらったので、二人で気持ちばかりのチップを渡した。本当に純真な人だったので、何度も「そんなつもりで案内したわけじゃないよ」と断ったが、家族でビールでも飲んで下さいというと最後は笑顔で受け取ってくれた。
宿に着くともう夕食の時間で、食堂に入るとテーブルの上にはいくつもの前菜のおかずが並べられた。二人ともこんなにおかずが出てくる食事なんて日本以来だったからそれだけで感激した。味も家庭料理だったので優しい味付けでとても美味しかった。グルジアのレストランで食べる食事もいいけれど、家庭料理はもっと奥が深かった。「今日は少し奮発した宿にして良かったね」と耀平君と言い合いながら夕飯を満喫した。
同じテーブルで食事していたイスラエル人カップルの男の人に「君、僕のこと覚えているかい」と聞かれたが全く思い出せなかった。話してみるとこの間カズベキ山で水を譲ってくれた人だった。その時はサングラスをかけていたから顔が分からなかった。私たちの後ろのテーブルのグループもイスラエル人だった。目が合うと、どこから来たのかと聞かれたので「日本だよ」と答えると、「日本だって?俺日本が大好きなんだ」と同席を勧められた。グループは若いイスラエル人の5人組でそのうちの2人は日本語を勉強したことがあり、片言で会話することが出来た。他の3人も実に親日的で日本人のマナーの良さや文化の奥深さを褒められた。買ってきたデザートのケーキを分けてくれて、会話はとてもはずんだ。
それでも何かの拍子に政治の話になり、私がパレスチナ人が置かれた環境のことを可哀想に思う、というと空気が一瞬で凍りついた。今思うとそんなこと言うべきじゃなかったのかもしれないけれど、彼らは「世界中の人たちが俺たちイスラエルが一方的に酷いことをパレスチナ人にしているみたいに思っているけれど、俺たちはテロリスト集団であるハマスから国を守っているだけなんだ」と反論した。それに対し言いたいことはたくさんあったけれど喧嘩したくなかったので「そうなんだね」と言ってその場を治めた。
翌日はメスティアからジープで15キロの山道を3時間かけて行ったところにあるウシュグリ村を目指すことにした。グルジアがヨーロッパに含まれるかどうかはさておいて、ウシュグリ村は「ヨーロッパ最後の秘境」と呼ばれていて、ヨーロッパ一標高が高い2400mに位置する人口200人の小さな村だった。
宿で手配された車に乗って村に着いたは良かったけれど、着いてから最初の言い値の倍の値段を請求された。あまりにも悪質で誠意の無い運転手だったので、最初は耀平君が反論していたが全く反省するそぶりがなかったので私はここで大声をあげてキレた。「お前たち悪徳な観光客として警察に突き出すぞ」と言われたので、「こっちから警察を呼んでやる」と言って電話するふりをした瞬間、1時間近く争っていたのに急に元の言い値に戻った。思わぬエネルギーを消費してしまった私たちは宿探しで宿を3軒はしごしてから、遅い昼ごはんを食べに行った。
二人ともどっと疲れて「もう今日は寝るだけしかエネルギーがない」という結論に至った。せっかく朝早く出発したのにあんな値段交渉をするはめになって観光のエネルギーを無くしてしまうなんて。日本円にしてたった千円くらい、グルジアでは結構大金だけど一日無駄にしてしまった。しかも一番ショックだったことは、味方だと思っていた耀平君に「さとみさんの怒り方、マジ怖い。中国人みたい」と言われたこと。もうショックすぎて言葉が出なかった。一体誰のために戦っていたのか。午後は二人とも夕飯の時間までずっと寝ていた。夕飯は家庭料理で、特に自家製のチーズが美味しかった。燻製されていてお酒のつまみに良さそうな味。
翌朝は気を取り直してウシュグリ村の奥にある氷河を目指してトレッキングに出かけた。世界遺産に登録されている地方だけあって、アッパースワネッティは絶景だった。村そのものも百年前から何も変わっていないんじゃないかというぐらい、素朴な暮らしが残っていた。
トレッキング中にジープを借りてドライビングをしているイスラエル人カップルと出会い帰りはなんとメスティアまで車に乗せてもらえることになった。メスティアに戻ったのもかなり夜遅かったのでその日はメスティアの安いホステルに泊まって翌朝のマルシュルートカでトルコとの国境近くにあるバトゥミを目指すことにした。
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