グルジア~トビリシ、西と東が出会う街~

ザザの家はトビリシの外れにある大規模な旧ソ連団地の一角にあった。3LDKの部屋に両親と祖父母とお姉さんと6人で住んでいた。家族は皆英語は一切話さなかったが、真夜中に息子が突然連れて帰った不思議なアジア人を暖かく迎えてくれた。ザザは私を自分の部屋に泊めてくれて、自分は明日から仕事なのに居間のソファで寝たようだった。朝起きるとザザは出社する支度をしていた。彼はグルジアのビール会社でエンジニアとして働いていた。お母さんは私の為に朝食を作ってくれて、言葉は通じないけれど暖かい人柄が伝わってきた。ザザは車で地下鉄の最寄り駅まで送ってくれて、私はそこからトビリシ観光に出掛けた。

ザザの住む団地街
ザザの住む団地街

最寄り駅ではタクシーやマルシュルートカが行き交う中、たくさんの人がパラソルを開いたテーブルに野菜や衣類を並べて売っていた。年輩の女の人は皆黒いロングスカートを履き、頭にはスカーフを被っていた。皆顔立ちがはっきりしていて、目力が強く、鼻が高くて美人な人が多かった。また大分ふくよかな体格を分厚い重ね着で隠していた。駅自体も結構オンボロで、辺りにはゴミが落ちていて、冷たい空気の中外で商売している人を見ると、この国の経済状態が伝わってくるようだった。改札に行くまでの地下道には、所狭しと洋品店が軒を連ねて中国製の安い衣料品を売っていた。その雰囲気は韓国の駅の地下街ととてもよく似ていた。けばけばしくてとてもオシャレとはいえない服でもスタイルの良いグルジア人が着るとなかなか悪くなかった。

グルジアの駅
グルジアの駅

スイカのような地下鉄のパスにお金を入れて改札をくぐると、モスクワで見たのと全く同じ高速エスカレータに乗って地下深くまでもぐった。旧ソ連では地下鉄を使って武器の運搬をする際に、敵の衛星から見つかりにくくするよう線路を深くに作ったらしい。アルメニアでは駅の作りは同じだったけれど、エスカレータに乗ってからホームに着くまでの距離はわずかだった。

高速エスカレーター
大江戸線も顔負けの深いエスカレーター

グルジアの駅のホームにはちゃんと電光掲示板があり、矢印によって行き先が分かりやすく表示されていた。しかしホームには生暖かいどぶのような匂いが充満していて、一刻も早く電車が来るのを待った。思ったより現代風の車両に乗り込んで席を確保すると、すぐに紙コップを持った物乞いがきて通路を行き来した。朝早くから大変だなぁと思って見ていると、一分もしないうちに誰かがチャリンとコインを入れた。それに続くように他の人たちも自分の財布から小銭を取り出して、物乞いはこの車両だけでも最低5人以上からお金を恵んでもらえたようだった。日本だったら一日かけて5人から貰えたら良い方だろう。物乞いは次々とやってきては去っていった。

トビリシについては何ヶ月も滞在していたヨシ君に色々情報を聞いていたので、まずはトビリシの銀座と呼ばれるルスタベリ通りのメインストリートに向かった。トビリシの町並みはヨーロッパと変わらなかった。大きな通りの両脇にはマロニエの木が並び、建物は完全にヨーロッパのそれだった。

ルスタベリ通りにあるオペラ座劇場
ルスタベリ通りにあるオペラ座劇場
並木道
並木道

ルスタベリ通りをずんずん進むと大きな広場に突き当たり、そこを横切ると小さな旧市街地区があった。特に見所があるわけじゃないけれど、こじんまりして歩きやすかった。そこにある古い教会を見学した後は歴史ある公衆浴場に向かった。色の褪せたレンガで出来た特徴的な丸い屋根からは湯気がもくもく出ていて、今でも現役で使われていることに驚いた。

旧市街地区の果物屋さん
旧市街地区の果物屋さん
ベトナム風の落書き
ベトナム風の落書き
歴史を感じさせる公衆浴場
歴史を感じさせる公衆浴場

写真を撮っていると年輩の白人女性に声をかけられた。マキシーンはアメリカ人の旅行者で、60代後半なのに一人で旅行していた。いくつか言葉を交わしたあとグルジア名物のワインを飲みに誘ってくれたので、二人で近くのオープンカフェに入った。

マキシーンはパナマ運河の開通に携わったアメリカ人の両親の元に生まれて、20歳までパナマで育った。その後アメリカの大学に進学し、オーストラリア人と結婚してオーストラリアに渡ったが、数年で離婚してアメリカに戻り、独身を貫いたまま定年まで教師として働いた。彼女は旅行が大好きで毎年休暇を利用しては一人で世界中を旅してきたと言った。「私がイランに行ったのは40年前でね、そのときはまだシャア(王様)がいたのよ」なんていう彼女の旅行話を聞くのは楽しかった。

自国の外にあまり出たがらない人が多いというアメリカ人の中でも、こんな行動力のある女性がいることに驚いた。マキシーンはつい昨日も一人でマルシュルートカを乗り継いでロシアの国境まで行き入国を試みたが、ビザに書かれていた入国ポイントと異なるという理由で追い戻されたらしい。入れなかったのは残念だけれど年輩の女性が個人でそこまでトライするということに感心した。いいな、いつか私もこんなカッコいい年のとり方をしたい。マキシーンとはトビリシを見渡せる丘にケーブルカーで登って写真と撮ったあと別れた。

丘から見下ろすトビリシの町並み
丘から見下ろすトビリシの町並み
クールなマキシーン
クールなマキシーン
とっくりをひっくりかえしたようなコンサートホール
とっくりをひっくりかえしたようなコンサートホール
最近出来たばかりの新しい橋
最近出来たばかりの新しい橋

それにしてもグルジアに来て一番驚いたことのひとつは建物の老朽化だった。目抜き通りには新しくて綺麗な建物がたくさん建ってはいるものの、一つ通りを奥に進むと信じられないくらいオンボロの建物ばかりだった。百年前はきっと立派な家だったのが、味があるという言葉じゃ効かないくらい、ベランダが崩れていたり、建物自体が傾いていたり、朽ち果てたりしてお化け屋敷化していた。そしてもっと驚いたことはそれでもちゃんと人が住んでいることだった。

昔はきっと豪華な家だったはず
昔はきっと豪華な家だったはず
傾いた家
よく見ると建物が波打っている
トビリシのねこばばあ
トビリシのねこばばあ

団地の老朽化もかなり進んでいた。多くの家が部屋の面積を増やすためにベランダだったところをトタンやレンガで覆って部屋の一部に改造していた。ザザの家では浴室の壁紙が剥がれコンクリートに埋もれているはずの水道管が剥き出しになっていた。初めて見た時は築60年くらいかなと思った団地街はすべて80年代の終わりに旧ソ連の突貫工事で建てられたものだと知り絶句した。まだ30年も経っていないなんて。「うちの国では誰も丁寧に作ろうなんて思わないんだ。経済が発展して人口が都市に集中するなか間に合わせに大量生産したんだよ。」とザザは言った。私は初めてロシアでモスクワの美しい町並みと高級住宅街を見た時に「こんなに豊かな街見たことない。案外ソビエトってうまくいってたんだな。」と感心した。でもそれは間違いだった。これが本当のソ連の姿だった。

つぎはぎのバルコニー
生活はあまり楽ではなさそうだ

夜はザザがグルジア料理を食べに連れて行ってくれた。グルジア名物のヒンカリという料理は小麦粉の皮で羊肉のミンチを包んだもので、突き出たにんにくの芽みたいな部分を手に持って、皮をかじり肉汁をすすったあと中身を食べるという小籠包みたいな料理だった。肉にはしっかりと塩味がついていて、小麦粉で出来た滑らかな皮は分厚く食べ応えがあった。

グルジアの小籠包、ヒンカリ
グルジアの小籠包、ヒンカリ

その他に雄介君が一押ししていたオーストリという、牛肉をトマトベースのソースで青唐辛子と一緒に煮込んだ料理を注文した。「日本人なら絶対好きな味やわ」という言葉の通り、オーストリは私の胃袋をがっちり掴んだ。牛肉はとろけるほど柔らかく煮込まれていて、トマトのほのかな酸味と唐辛子の辛さがマッチした絶品料理だった。これに白いご飯があったら二杯はいける。グルジアの主食はもちろんパンで、ツチノコみたいな形の生地を石釜で焼き上げたものが町中に売られていた。外はカリカリ、中はもちもちで味はどことなくインドのナンに似たほのかな甘さがあった。冷めて硬くなるのと美味しくなくなるのも同じだった。食事だけでも十分満足なのにザザは自分が勤めるゼダゼニという会社のビールとレモネードも頼んでくれて、最後は気前良く全部奢ってくれた。日本だったら数日前に会ったばかりの人に、普通ここまで良く出来ないよなぁと感謝の気持ちでいっぱいだった。

ありがとう、ザザ
ありがとう、ザザ

彼は日本の文化にとても興味を持っていた。それもアニメやゲームとかではなくて、文学や神話や映画に惹かれていた。家の本棚には源氏物語や万葉集のグルジア語翻訳されたものが並んでいて、短歌や俳句の素晴らしさについて熱心に語った。日本神話の解釈について質問されたり、黒澤映画のどれが好きか聞かれたり、不勉強な私には答えられないこともたくさんあったけれど、ザザの日本文化への熱い思いを知ってとても嬉しい気持ちになった。彼はユーモアのセンスがあるうえに実に紳士で、一緒にいて退屈することがなかった。また数日前に会ったばかりなのに、話しているとずっと昔から友達だったかのような不思議な気持ちに包まれた。あまりそういう人に出会ったことがなかったので尚更妙に思った。普段なら数時間しか話したことのない人の車に乗って、国境越えして家にお邪魔するなんてことはしないのだけれど、初めて会った時にこの人は大丈夫だとピンときたので、自分の直感にしたがってこうしてグルジアまできた。それはやはり間違いではなかった。夕飯を食べたあと家に戻り、お姉さんのマリアとお茶を飲みながら今度おこのみやきを作る約束をした。自分にできることといえば下手な日本食を作ってお礼することぐらいしかなかった。

翌日はヨシ君が紹介してくれたグルジア人のサロメちゃんという女の子に会った。その日夜行列車でトビリシに着いたばかりの耀平君とルスタベリ通りのマクドナルドで待ち合わせして、サロメちゃんにトビリシ観光に連れて行ってもらった。サロメちゃんは19歳の日本語学科で勉強する大学生で、日本のアニメや漫画が大好きで日本に行ったこともないのに日本語がぺらぺらだった。それを生かしてトビリシにある日本大使館でアルバイトしていて、よくこうやって日本から来た旅行者と会って案内してあげていた。その後サロメちゃんのクラスメイトのニノちゃんとも合流して4人で世界遺産にも登録されているツミンダサメバ教会を見学しに行った。

ツミンダサメバ教会
ツミンダサメバ教会

グルジアの教会では他の国に比べて真剣にお祈りしている人の姿が多く見受けられた。中で写真を撮るのも躊躇われるくらい、敬虔な人たちは蝋燭に火を灯し、イコン画の前で十字架を切りキスしたりしてとても真剣に何かをお願いしていた。貧しい国では自分の力でどうにかなる事が少ないから、信仰の力が強くなるのだろうと想像した。

スカーフをかぶってお祈りする女性たち
スカーフをかぶってお祈りする女性たち

教会に行った後はレストランに入り軽い夕食を食べた。4人で頼んだのはお気に入りのオーストリとカチャプリというサロメちゃんおすすめのグルジア風ピザで、自家製のパン生地にたっぷりのヤギのチーズをのせて釜で焼き上げたあとに生卵とバターを落とした料理だった。これがまたシンプルなのに想像を上回る美味しさだった。熱々でもちもちのパンに卵黄がとろりとからまって、チーズの酸味がよくきいていた。グルジアの料理はレベルが高い。ロシアでも人が集まりちゃんとした外食をしようとすると、大概グルジア料理の店が選ばれると聞いた。

カチャプリとオーストリ
カチャプリとオーストリ
カチャプリを切り分けるサロメちゃん
カチャプリを切り分けるサロメちゃん

サロメちゃんとニノちゃんに別れを告げて家に戻り、ザザのお姉さんとの約束を果たすべく夕飯にお好み焼きを作った。でも残念ながら彼女は他に用事ができたようで、マリア以外の家族に振舞った。みな食べ慣れない不思議な料理を美味しいねといって食べてくれた。食後は団地の上の階でザザの友達の誕生日会が開かれているということでお呼ばれされて行ってみた。部屋の中では大きなテーブルに文字通り並べきれないほどのごちそうが積まれ、皆突然来た不思議なアジア人をとても暖かく歓迎してくれた。主賓であるザザの友達は26歳になったばかりの綺麗な女の子でシャンパンやワインをつぎつぎと注いでもてなしてくれた。家のお父さんは昔学校で習った細かい日本の地名をよく覚えていて、私が退屈しないようにたくさん話をして盛り上げてくれた。また歌の上手い友達がグルジアの伝統の歌を歌ってお祝いした。

お誕生日おめでとう
お誕生日おめでとう
盛大な誕生日会
盛大な誕生日会

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